中世の文化財――浦添御殿の墓

中世の文化財――浦添御殿の墓

 沖縄県浦添市に澤岻(たくし)という地域がある。那覇市と地続きで隣接しているので、なぜ行政区が違うのか不思議だが、その澤岻に私の妻の側の祖先「浦添御殿(うどぅん)の墓」がある。妻の母方で4代さかのぼると、浦添按司という琉球王朝末期の政治家に行き着く。その一族の墓で、さらに祖先をたどると、17世紀の浦添王子が源流である。

 19世紀半ば、軍艦を率いたペリーの来沖に象徴されるような欧米列強の圧力に耐えられず、琉球王朝はこれまで関係の深かった薩摩藩にすがるか、あるいは朝貢を続けてきた清王朝に支援を仰ぐか、両派に分かれて政論は激しく対立した。結局、廃藩置県で消滅した薩摩藩に代わって、明治政府が琉球を受け入れ、ここに琉球が日本に帰属することに決まった。

 当時、清派のリーダーが浦添按司だった。政争に敗れた浦添按司は清派のグループおよそ1000人と清に亡命した。福建省に置かれた琉球館を拠点に、幾度となく北京まで使者を派遣して清国政府に琉球王朝の危機と救援を要請した。しかし、アヘン戦争の敗北で衰弱しつつあった清国には琉球の要請を受け入れる意欲はなく、亡命した1000人の努力は水泡に帰した。その後、一部は密かに琉球に戻るが、多くは北京に旅する途中で災禍にあって命を落とす者、病没する者、伴侶を得て土着してしまった者など、琉球には戻らなかった。

 浦添按司は密かに戻ったそうである。琉球に戻っても長い間、隠れ棲んでいて、やがて罪を許されたようだが、不遇な晩年を過ごしたことは想像できる。「浦添御殿の墓」に祭られているはずである。
この墓は、沖縄独特の大きな亀甲墓で、丘の斜面に造られている。一族の者が世話をしてきたが、戦争での断絶もあって、維持するのは難しく、浦添市に寄付し、浦添市は文化財として整備することになった。深い草に埋もれていた巨大な墓は掘り出されて全容を現すようになったが、高さ3㍍程の屋根にあたる部分は左側の方が少し欠けている。戦争の傷跡だろうか。この付近は激戦地域である。石垣には銃痕らしきものも見られる。周囲は多くの戦没者の白骨が発見された一帯でもある。文化財に指定された理由の一つは、亀甲墓を造っている大きな石材が琉球にはない石で、中国から輸送したものだと想像され、貿易立国琉球を象徴する歴史的価値が認められたものだという。

  「墓地公園」として整備途中だが、近々完成したら、墓の前の広場で先祖の法要を営む機会もあるかもしれない。筆者も琉球DNAを持っているので、沖縄流の法要が楽しみである。どうも蚊が大敵らしいが。

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