2012年3月までを期限とする沖縄振興計画について、終了後、次期振興計画を策定するのかどうか、策定するとしたら内容をどうするのか――政府内部で議論が続いている。筆者も、内閣府・沖縄振興審議会の専門委員として議論に参加しているが、この振興計画について、特に、その成り立ちについて若干、筆者の認識と異なる話をしばしば聞く。少し気になるので、筆者の思う事を書きとめてみる。
2002年に始まる現在の沖縄振興計画の枠組みを作ったのは、筆者の理解では橋本龍太郎総理大臣だったはずである。それより前、通産大臣だったころ、近親者を沖縄戦で失った橋本氏は沖縄を訪れた際、墓参とともに、戦跡をめぐって海軍の壕にお参りした際に大きな衝撃を受けたと聞いている。
正確には数えられないが、沖縄戦で亡くなったとされる沖縄県住民の戦没者数は約9万4000人とされている。日本軍の死者数とほぼ同数、米軍(1 万2520人)を含めた戦没者約20万人のほぼ半数近い。単に戦災に巻き込まれたというだけでなく、日本軍を後方支援しながら危険な業務を代行した県民の犠牲も数多かった。
沖縄戦終結の直前、海軍の現地司令官だった大田實少将は包囲された海軍壕の中で自決する前に、残されたかすかな通信手段を使って海軍の戦いの終結を報告する電文を送ったが、その末尾に、沖縄県民がいかに献身的に日本軍と行動を共にしたか、率先して危険な業務に携わったかに言及し、最後に「沖縄県民かく戦えり。 県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを。」と結んだ。
橋本大臣は、この戦跡で太田少将の電文を読み、号泣したと聞く。「後世、沖縄県民に特別の高配」をしたか。地上戦で焦土と化し、経済基盤を壊滅された沖縄県に、確固とした経済基盤を復活させるのが、後世の日本の政治家としての責務である、という思いに至り、現在進行中の沖縄振興計画の枠組みを作った。沖縄振興計画は、米軍基地があることの「代償」としてあるのではない。沖縄戦で壊滅し、犠牲になった沖縄の「経済力回復」のためにある。普天間問題などで沖縄県民の強い姿勢に出会うと、「沖縄振興計画などの補助を有利にしようという駆け引きではないか」などというとんでもない誤解をする人たちの声を聞くと、がっかりする。
沖縄振興計画は、沖縄にとっては、そこから「戦後経済」の土台をつくる出発点である。筆者は、次期振興計画で、沖縄の経済の自立が図れ、「沖縄の戦後」が終わる事を夢見ている。