結婚して20年以上も経ってからだが、共に母方が沖縄出身の筆者、家内はどうも祖先が「政敵」だったらしい、と気がついた。遠い親戚である、というのは、付き合い始めた学生のころから知っていたが、その後、いろいろ、縁が深い事が次々と明らかになった。
まず、筆者の母の父親は沖縄の地元新聞で「主筆」を務めた後、当時の首里市助役から首里市長になって、50歳を少し超えた若さで亡くなった。これに対して家内の祖父は弁護士から沖縄選出の衆議院議員となって一期務めた後、落選、しばらく那覇市長を務めていたが、当選した代議士が不祥事で辞任したので補欠選に出て、再度代議士になった政治家。戦後は疎開した鹿児島で弁護士として活動した。現在は那覇と首里は合併して那覇市となっているが、同時期に那覇市長と首里市長だったわけだ。15年ほど前、沖縄県立博物館を娘と訪ねた際、歴代那覇市長の写真が掲額されている部屋があって、娘にとっては曽祖父にあたる二人が、共に並んでいたのに感激していた。
祖父の代でも筆者と家内はこんな縁があったのだが、4代さかのぼった祖先では、深い対立があった。明治初年代に琉球王朝は欧米列強の圧力を受けて独立維持に危機を感じ、最後の尚泰王の時に、支援を薩摩に求めるか、清に求めるかで激しい政争を繰り返した。薩摩派のリーダーは伊江王子(当時摂政=総理大臣)で、結局、薩摩がなくなって、明治政府と交渉し、日本に併合されることになった。この伊江王子が、筆者の4代上の祖父(傍系ではあるが)に当たる。
明治11年に「沖縄県」として編制され、琉球王朝が滅びたが、最後まで反対した人々は清に亡命して、大和支配を中止するように応援を求めた。これが「頑固党」と呼ばれるグループだが、その中で最も高位だったのが、浦添王子の血脈を継ぐ、浦添朝忠で、その後、亡命から帰国して沖縄で親中国的活動を展開したが、現在は浦添王子と同じ浦添御殿の墓に眠っている。この朝忠が家内の4代さかのぼる祖父である。
つまり、筆者と家内の4代さかのぼる祖父は琉球を割る大転換期に最も深く対立した政敵だった。
その浦添御殿の広大な墓が、浦添市の文化財に指定されて、管理を浦添市に移管した。琉球独特の大きな亀甲墓で、浦添市の教育委員会が2月22日、その内部の調査を行う事になった。本来は家内が行くべきだが、代理で、生き残った少数の一族とともに、筆者が調査に立ち会うこととなった。この原稿は調査の前日、沖縄に向かう飛行機を待つ、羽田空港のロビーで作成している。内部がどのようなものだったか、次回、報告したい。
戦争中には日本軍が防空壕代わりに亀甲墓に隠れ入ったので、内部がかつてのままに保存されているかどうかは分からないが、戦時中まで「風葬」だった沖縄では、火葬せずに遺体を長期間、墓の中に安置し、白骨となってから一族の女性で「洗骨」をしたという。筆者の祖父もそのように葬ったそうで、母からは、父の白骨を洗った時の悲しみを何度も聞いた事がある。
さて、どのような内部か。写真撮影が調査の一部にあるので、筆者も撮影して来たい。