浦添御殿(うどぅん)の墓(2)

浦添御殿(うどぅん)の墓(2)

 1月21日、かなり強い雨の中で沖縄県浦添市にある浦添御殿の墓の扉を開き、浦添市役所による調査が始まった。僧侶による読経の後、墓の口を閉じている石を取り除き、内部が見えてきた。口を閉じている石は大きなものは20㎝ほどか。小さな石は拳大である。30個近いこれらの石には数字を書いた布テープを張り付けて写真を撮った。戻す時の目印である。

 墓の中にハブがいると危険なので、2週間前には薬剤を注入したそうである。さらに1週間前には小動物を入れて確認した、という念の入れようだ。

 ぽっかり口が開いた。ヂーゼル発電機を起動し、内部に照明の強烈な光を当てようとしたが、どこかで断線しているらしく、明りはつかない。何度か試みたがうまく行かない。結局、ストロボをたいて、まず、内部の撮影を行った。ただし、戦争の際に墓の上部に砲弾を受けたため、直径2メートル大の陥没が見られた。墓の天井部も大きくえぐれているので、天井が落下する危険がある。内部に入るのは危険なので、撮影は墓の口からである。

 撮影の後、次々とわれわれ一門の者がお参りをし、墓の内部を拝んだ。(写真)

 骨をおさめた独特の甕が前列に2つ、後列上段に3つ、配置されていた。強いライトがつかないので、代わりに薄暗い懐中電灯の光を内部を舐めまわすように動かして点検をした。甕の前には位牌のように名前を書いた陶板が立てかけて並んでいる。

 途中から、ようやく、ライトがついて強い照明が内部全体を照らし出した。また、印象が全く変わった。明るい光に照らし出された内部は壁面も床も奇麗だ。広さは畳の部屋でいえば4畳くらいか。3畳よりは広いが、4畳半よりは狭い。

 浦添御殿は、第2尚氏、17代の琉球王、穆(ぼく)の次男である王子・朝央を祖としている。18世紀後半、朝央は政治の中心の摂政に就任するが、わずか3年で死去、この墓に葬られた。36歳の若さである。筆者の妻の母方、7代ほどの祖先になる。朝央の2代後の浦添王子朝憙も摂政に就任、17年の長きにわたって務めた。その子の朝忠は、琉球処分の際に大和への併合に反対して清に救援を求めて亡命した。日清戦争後、沖縄県に帰国、後に亡命の罪を許されたが、孔子廟を浦添の邸に移すなど、中国への思いは終世失わなかった。妻の母方の4代祖先である。

 その朝忠もこの墓に葬られているはずだが、その名前は今回は確認できなかった。戦時中、位牌は親族に預けられていたので残っており、首里城前、首里高校の正門前の安国寺に、昨年、お納めしたはずである。

 墓の周辺の敷地は浦添市が整備し、一帯を「墓地公園」として開放することになっている。

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