大田昌秀元知事との会話

大田昌秀元知事との会話

 12月下旬の金曜日、沖縄でソフトウェア開発を手掛けるビジネスラリーアート(本社京都市)の平良尚也沖縄支社長に呼び出されて立ち寄った店で大田昌秀元沖縄県知事にお会いした。ちょうど、日本経済新聞時代の先輩記者で日経BP社前専務の太田民夫さんが那覇に滞在中というので、駆けつけた店で、大田元知事と太田民夫さんが会食していたのに合流した、というわけである。

 太田民夫さんは大田元知事の著書を読んでいて、沖縄に観光に来る際に、思い出して本棚からその著書を引っ張り出して再読し、改めて感激した。そのことを東京で交流があった平良尚也氏に伝えると、旧知の大田元知事を呼び出して引き合わせてくれたという事情らしい。

 太田、大田のふたりの「おおた」さんは、意気投合して知事時代の裏話、その後、参議院議員時代の裏話に花が咲いていた。86歳の大田さんは現在も「大田平和総合研究所」を主宰して、元気に活動しておられる。知事時代に進めていた米国先端産業地域への若者の留学制度が前知事の時代になくなったことを憂えていたが、平良尚也さんや沖縄の有力ベンチャーであるレキサスの比屋根隆社長らが資金を出してシリコンバレーに若者を送るプロジェクトを進めている、と説明
すると、県がやらないことを民間がやっている、素晴らしいと礼賛していた。

 平良さんはすぐに比屋根さんに連絡して、比屋根社長もしばらくして合流した。

 一つ、個人的に感激したことがあった。私の祖父が戦前、当時の首里市(那覇市に統合)の市長をしていた高安玉兎だったというと、しばらく視線を宙に浮かせていた大田さんは、「その方は当時、たいへん活躍した人で、僕の著書にも名前が出てきますよ」と言った後、「そうですか、中島さんはそのお孫さんですか。お会いできて感激です」と握手を求めてきた。沖縄DNAをもつ身。まだまだあれこれ、献身しなければならない。大田さんは、86歳にして、なお、沖
縄に献身的活動を繰り返しているのだから、としみじみ思った。

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