前稿で紹介した「浦添御殿(うらしー・うどぅん)の墓」の浦添市による整備が終わってその式典に参加してきた件について補足。下の写真で、式典前、浦添市の文化財課の担当官と挨拶をしているのは家内の叔母(桑江興子さん)で、那覇市首里﨑山町在住、今回の浦添市との交渉を親族(門中)代表沖縄で執り行ってきた。88歳だが、腰も曲がらず60歳のころと全く変わらない元気さ、快活さでこの行事を仕切ってきた。
浦添御殿の墓は18世紀の終わりころの建設だそうだ。墓域は1200坪、その中央部に大きな石造りの亀甲墓と広い前庭がある。清明祭や法事などの行事の際にはこの前庭や、入りきれなければ周辺の林の中も使って門中が集まって、読経の後に料理をつまみ、泡盛を飲んで談笑したそうだ。昔は墓守の小屋が前庭に隣接してあったそうだが、戦後は叢となっていた。
政治家、文化人を輩出した家系で、尚穆王の次男の尚図(浦添王子朝央)の創家から4代目の浦添朝忠(3代浦添王子朝熹に男子がなかったため奥武家からの養子)は琉球王朝が廃止され、日本に帰属することが決まった(琉球処分)後、清に救援を求めて日本の合併を阻止しようとした「琉球救国運動」のリーダーの一人だった。清亡命後、清の衰退に失望して沖縄に帰国した。その朝忠の位牌も中にある。桑江興子叔母はその朝忠の曾孫に当たる。
門中の多くが沖縄戦などで戦死、内地に疎開していた者もわずかに生き残っただけで、戦後は墓守をする関係者も少なく、徐々に荒れてきた。ただ、葬られているのは歴史に残る政治家、文化人であることから、文化財としての価値も高く、浦添市に寄付することにあったものだ。浦添市は大きな墓と前庭、その周辺を修復、整備するとともに、林を切り拓いて市民が散策できる公園として整備開放した。散策してみると、墓の上の丘の頂上からは東シナ海が望めた。近所の最も高いところに墓が作られたようである。
挨拶に立った浦添市の儀間光男市長は、「市民、県民の宝として受け継ぐ決意を新たにしている。多くの人々が琉球王国、浦添家の歴史に思いをはせ、文化振興の拠点になることを願う」と語った。
叔母の大きさと比較して、墓の巨大さが理解できるだろう