「有害情報取締り」の社会的許容度
監視カメラのケースはどうだったか。鉄道駅や小売店頭、繁華街の街角などに監視カメラが設置される、と報道されたときには学者や人権問題の運動家などからは猛烈な批判があった。「プライバシーを侵す危険がある」とする主張は、今日でも変わっていないと思うが、すっかり沈黙している。殺人事件が起こった後、駅頭のカメラや銀行、コンビニの店頭カメラ、あるいはマンションのエレベーターのカメラなどに映っていた映像を参考に事件がスピード解決するケースが目立って増えた。犯罪そのものを減らす抑止効果がどの程度あるかは分からないが、警察の犯人割り出し、事件解決に役立っていることは確かである。これだけ実績があると世論は監視カメラの推進を支持する。反対派も取り立てて騒ぎ立てる状況にはないと、しばらく様子見を決め込んでいるようだ。世論がどのように監視カメラを支持しても、プライバシーが侵される危険が減っているわけではない。
監視カメラとプライバシー論争では、青柳武彦氏(前国際大学グローコム教授)が、プライバシーは絶対的な基本的人権ではなく、社会公共の利益との兼ね合いで許容度が決まる、と明快に分析している。この見解によれば、監視カメラの社会的価値が大きくなった現状では、プライバシーが制限されても妥当だということになる。
翻ってインターネットの有害情報の取り扱いである。同じ論点から行けば、インターネットを飛び交う有害情報が引き起こす事件の大きさが許容限度を越えれば、表現の自由などの基本的人権も何らかの制限を課されることは避けられないだろう。問題は、監視カメラのような、世間が支持しやすい分かりやすい方法論があるかどうかである。たいした効果もない規制だけが闊歩して、表現の自由や情報に接する権利などの基本的人権が必要以上に制約されることにならないか。
インターネットで有害情報を流す仕掛けを作るものも、また、それを悪用して悪質コンテンツを流すものも、実は巧妙である。出会い系サイトや掲示板なども、規制をいくら作っても抜け道を編み出してゆく可能性がある。それをモグラたたきのように追いかけているうちに、過剰な規制に走りはしないか。心配は尽きないのが新しい社会の宿命である。