世界遺産条約の日本の批准の遅さ
謎がある。1972年、パリで開かれたユネスコ(国連教育科学文化機関)総会で世界遺産条約が採択され、これに基づいて発足した登録制度である。真っ先に批准した米国をはじめ二十か国が批准して、3年後の75年に条約は発効した。その後、各国は順調に条約を批准して来たが、日本が批准したのは遅く、なんと発効後20年を経た92年にやっと国会で批准された。現在までの条約批准国数は185か国だが、日本は125番目。後ろから数えたほうが早い。この時の総会の責任者は日本からの代表だったというから、なおさら、この批准の遅さは気になるところである。
いくつか説明がされているようだ。「すでに日本には文化財保護法があって、世界遺産条約のようなものは不要だった」とか、「世界遺産に登録するための経費やその条件を維持するためのコストが膨大だ」とか、それだけ聞いても何を言っているのか理解できないものばかりである。日本に文化財保護法がすでに施行されていて十分に保護されているなら、自信を持って条約を批准して、日本の人類遺産を世界にアピールすれば良いではないか。遺産に登録しようとすれば費用がかかるかもしれないが、批准するだけなら、別に費用がかかる話ではない。世界遺産基金の分担金というコストがあるが、絶対額は数億円単位で、それを理由に世界の趨勢から離脱する理由とするには違和感がある。
一つだけ、ヒントがあった。日本列島改造計画の推進時期と同時期だった、ということである。証明する証拠があるわけではないが、これならば納得が行く。
日本列島改造計画は、日本各地の山を崩し、海を埋め、土地を掘り返し、道路、鉄道、空港建設、巨大な建築物などが次々と建設される推進力となった。しかし、その列島改造のスピードにブレーキをかけたのが「文化財保護法」のような、埋蔵物の確認を強制する制度だった。建築工事や土木工事を始める前には学術的に価値があるものがないかどうかを確認する必要がある。文化財の可能性のある埋蔵物に出くわすと開発事業者は大変なことになる。その保存のために長時間の調査を行い、場合によっては建設工事、土木工事を中止、計画そのものを断念するケースも多々あった。世界遺産条約はそのさなかに、持ち上がった話である。時の宰相で、列島改造を使命とした田中角栄内閣は、「この上に、開発を遅らせる条約に参加するとは何事か」と反発した、と想像するのは無理なことだろうか。
20年経って、列島改造を推進した田中角栄氏の影響力もなくなった段階で、遅ればせながら、条約批准に前進した、ということではないか。
未来に向かっての土木開発から、古い歴史遺産や自然の保護、継承へと大きな転換時期を迎えた、ということだろうか。しかし、日本の古い歴史を飾る埋蔵文化財が、永い眠りから目を覚まし、再び日本人の前に姿を現したのは、列島改造計画によって日本中が掘り返されたのがきっかけだったのも忘れてはなるまい。国土の姿を変える開発は、実は保護すべき文化財の発見でもあった。列島改造計画にも感謝しなくてはいけない、ということを公平のために付け加えておきたい。