「におい」の文化の浸透
筆者は小学生のころから鼻炎にかかって長い間、「におい」から遠ざかって生活してきた。大学に入ったころにどういう拍子か、その鼻の通りが良くなって、長い間、無感覚だった嗅覚が戻ってきた。それが幸せだったかどうか。混雑した電車に乗ると、これまでは知らなかったさまざまな「におい」で鼻が曲がりそうになった。
朝の満員電車の車中は前日の二日酔いの酒のにおいが充満している。近くの女性の化粧と香水が汗と混じって何ともいえない不快なにおいとして鼻腔を襲ってくる。鼻がつまったままで感覚がなかったころには、においが分かるということが素晴らしいことのように思えたが、人間には知らないほうが幸せなことがらも存在することがこのときに良くわかった。これまで気がつかなかった人の口臭も気になり始めた。若者の汗のにおいもつらい。布団の中で、自分の体臭にも気がついた。
それからは、自分の体臭や口臭が気になるようになった。自分では他人に不快なにおいを発していないような気がするが、家族にその有無を聞く勇気も出ない。そうだといわれれば傷つくし、慰めに「なんでもない」と言われても、嘘を言われているのではないか、やはり疑心暗鬼になる。結局、自分で、においを発している、という最悪の事態を想定して対策を講じなければならない。
歯磨きの薬剤も息が爽やかになるとうたっている値段が高目のものに変えた。歯磨きとは別に口腔洗浄剤を使うようになった。整髪剤も使うようにになった。これが意外に良い香りである。シャンプーは娘の使っている香りの柔らかなものを風呂場でこっそり使わせてもらうようになった。
そういえば、海外に出張して一番印象に残ったのは、香水のにおい、化粧品の魅惑的な香りだった。男も、女性を誘惑するような刺激的なにおいの香料をふりかけて外出するのが習慣のようで、何か違和感をもったものである。しかし、気がつけば日本社会も同じような文化に浸されつつある。今回の取材でも、最も気になるにおいは「自分のにおい」というアンケート結果に接したが、なるほど、自分の体験とぴったり同じである。