ストレス社会の広がり
女優として伊丹十三監督の「あげまん」の準主役やテレビニュース報道番組のキャスターなどで活躍していた石井苗子さんは、いま、東大医学部の大学院を出て、心療内科のカウンセラーとして活動する準備をしている。すでに社会に確固たる地位を得たのに、思い切った転身である。敬服する。まさに日本の企業社会や社会全般に広がる心の闇の救済を志して、真っ向から取り組んでいる。先日、ある勉強会で石井さんの話をうかがった。
最も興味深かったのは、上司の付き添いで企業の従業員が来院する話だった。
医師が本人に質問をすると、すぐに質問を引き取って上司が医師に普段の問題がある部下の行動の説明を早口でまくし立てる。医師は我慢強く、本人が答えるのを待つが、上司が隣に控える場面では、仮に口を開いても小声で何を言っているか分かりにくい。それでも優しく、医師は次の質問に移るがまた、本人の機先を制して上司の早口が始まる。いかに、本人が元々は優秀で、それが今はパワーが落ちて、会議中、仕事中、精神が集中せず、時には居眠りの常習者になっているか。
何問か、上司が答えを繰り返した後、医師は、柔和に上司にもちかける。「隣の部屋が待合室になっているので、よろしければ、そちらでしばらくお休みになられたらいかがでしょうか」。上司はほっとしたように「それでは」と隣室に移る。
上司がドアの向こうに隠れると、医師は本人に向かって「たいへんですね」と語りかける。本人がほっと表情を緩めて涙ぐむ。そこからが医師の本当の問診である。こういう上司を持っていればストレスも倍加するだろう。
隣の部屋の上司はどうしているのか。そっと隣室をのぞくと、上司はソファに座ってすやすやと眠っているそうだ。こうしたケースではほとんど例外なく、上司はぐっすり眠っている。上司が抱えているストレスもまた大きいのである。もちろん、この部下の最大のストレスは何かと細かく管理してくる上司の存在そのものである。また、上司にとってはこの部下の存在がストレスになっている。
ストレス社会の広がりに対して、臨床心理士やセラピスト、心療内科の医師など、治療に当たる側の不足が際立っている。臨床心理士は臨床心理学の大学院を出ないと受験できない厳しい資格だが、民間の資格なので守秘義務など国家資格なら付与できる厳格な制度が設けられない。とうぜん、医師ではないので、深い治療を行うには限界がある。国家資格にしようという動きはあるのだが、医師会などが反対して制度化が進まないとの指摘がある。現在のストレス社会の進行には、国民、行政、企業、治療専門家たち挙げての取り組みが必要なのに、足並みの乱れが悔しいところである。