いずれ多少の反動はあるだろうが、「アジアの中の日本」という新しいポジションは今後もしだいに比重を増してゆくだろう。その転換点になるのが09年の日本からの輸出で、アジア地域への比率が6割前後に達したことだ。日本は第二次大戦後、一貫して米国依存の輸出大国に発展してきたが、09年、依存先はアジアの比重が米国を上回ったのである。アジアの中でもとりわけ中国の比重が大きい。かつては、米国がくしゃみをすれば日本経済は肺炎になると言われたが、今後は、中国がくしゃみをすれば日本経済が肺炎になる、と言われる日が来るかもしれない。
もちろん、中国経済もこのまま順調に発展するかどうかは分からない。山あり谷ありで、一本調子ではないかもしれないが、長期トレンドとして10年後を想像すれば、中国が現在の2倍近い経済規模に達し、米国経済の規模と肩を並べることになるのではないか。輸出相手国として、日本は米国と中国と同等に付き合う必要に迫られるだろう。
さて、現在のままで日本社会が推移すると、10年後に、日本で決定的に不足するものがある。中国文化を実践的に理解し、中国語をしゃべれる人材である。現在、すでに日本には米国留学、あるいは仕事で駐在体験をし、英語が十分に操れることはもちろん、米国社会もビジネス慣行も、良く理解している人材が豊富にいる。英語が話せるというだけでも、10年後には数百万人、あるいは、小学生から英語教育をするというから、もしかすると一千万人超えるかもしれない。しかし、中国文化、中国語はどうだろうか。現在のような教育システムでは、10年後、せいぜい20万人もいれば良い方ではないか。日本にとって同様に重要な貿易相手国でこのような大きな差が生じる。日本に決定的に不足するのは、こうしたアジア人材である。
反論があるだろう――「英語はグローバルなので、アジアでも通じるから、問題はない」。これは大いなる誤解と言うべきだろう。英語がグローバルなのは、米国を中心にした欧米の経済支配が長い間、続いてきたからだ。しかし、アジア各地域は実は中国語が通じる大中華圏なのである。北京語、広東語など差があるものの、広義の中国語が共通語である。中国が経済力をつけてくれば、アジアの共通語は中国語になると予想される。経済大国であれ、政治大国であれ、支配的な地位を占めるに至った国の言葉が共通語の地位を要求する資格をもつ。
さて、この予想に対して、日本社会はどのように対応するのだろう。少なくとも、中国語教育ブームが起きてくれなくては困るのではないか。このことをじっくり考えてもらいたいものである。