吉野家の思い出~~元祖「牛丼」の復活はあるか
1978年から3年間、農林水産省の記者クラブ詰めで記事を書いていた。当時、コメの需要が減少して「コメ余り」を解消するのが大きな課題だったので、コメの消費を促進する牛丼チェーンは農水省の期待の星だった。東京・築地の一隅で、味にうるさいプロの料理職人たちを相手に牛丼を販売して人気を得た吉野家が、その後、全国にチェーン展開して大成功した出世話は、幾分の脚色を交えながら、マスコミで何度も取り上げられた。
もちろん、筆者もすぐに牛丼ファンになった。その吉野家が、担当していた最後の時期に経営不振に陥った。急速な店舗展開が裏目に出た、味が落ちた、店の雰囲気が客層に制約を与えている、など、諸説があったが、どれも原因の一つだったろう。
経営不振の状況をチェックするため、担当の記者に誘われて3日間ほど、吉野家の各地の店を回ってみた。味はどこの店も平均化していて、味が落ちたかどうかは好みの問題だろう。これは改良の余地がある。急速な店舗展開は、確かに無理があった。郊外のロードサイドの店など、夕方から深夜まであちこち回ってみたが、どこも数人の客の姿を見るのみだった。さすがに繁華街や駅前の店では時間帯によっては満席のこともあったが、ここにも特徴があって、ほとんど男性客、それも一人で来て黙々と食べて、そそくさと帰ってゆく。注文してからすぐに料理が出てくるスピードは客を待たせないサービスのようにも思えるのだが、椅子の台が高く、足が宙ぶらりんで安定が悪いので、食事が終わるといたたまれずにすぐに店を出たくなるのと考え合わせると、来店客の回転率を高めるための工夫で、客の満足のためよりも店の経営効率のためのように思えてきた。
料理がすぐに出てくるのも、料理メニューの幅が狭く、同じ商品をサイズの違いや提供する形態の違いだけなので、準備が簡単だからである。どこか客の立場に立ったサービスの匂いがしなかった。
新経営陣になって、やや模索が続いたが、さまざまな改善の後に、吉野家は見事に復活した。
これまでの牛丼市場は吉野家が切り開いてきたビジネスモデルである。復活してから、すでに30年近い時間が経過した。企業の寿命は30年というが、復活した吉野家から数えても寿命の限界に近付きつつある。新しい業態を開拓して、もう一度復活することが重要ではないか。その潜在力は十分にある企業である。