「ゆとり教育」は有効である
少し年長で、ゆとり教育世代ではない取材チームのスタッフたちと「ゆとり教育」の議論をしていて気付いたが、その多くは私立の中学、高校で、元々、ゆとり教育とは縁がないのである。言い過ぎになるかもしれないが、ゆとり教育は公立の学校だけの問題で、私学は関係ないのではないか――そんな議論になった。
論点は2つである。
一つは、ゆとり教育に人気がなくなると、学力をつけさせたい、という親は公立を避けて、子供を一段と私学へ進めようとすることになる。これがまあすます格差を広げないか。しかし、学力をつけて有名中学、有名高校に進学させ、果ては、一流大学に進学させたとして、本当に、社会に役立つ人格形成ができるのか。どうも「学力」と「社会力」は別物ではないか、という批判も出始めている。学力偏重主義まで見直す良い機会になるのではないか。
もう一つの論点は、私学は元々、ゆとり教育なのではないか、という点だ。特に中学・高校一貫教育の私学。中学から高校に進むのに受験がないので、目先のことに汲々としない校風ができる。音楽や美術に傾斜してゆく変人が多数、輩出するのも、こうした学校である。勉強をみっちり仕込むことで「画一教育」に励む私学もないわけではないが、一方、勉強は子供の自主性にまかせ、「脱線」するのも自主性に任せる私学も多いのである。
こういう風に育てられる子供は良いのか、悪いのか。評価する物差しが今のところ見当たらないので、どうにも判定しにくい
記事の材料を集めているうちに、こんな記事をスタッフが集めてきた。某地区の高校ではゆとり教育で難しい課題を与え、自主的に研究させて個性を磨く教育を実践した。受験勉強とは無縁のことをしたのに、何と、急速に国立一流大学への合格者数が激増したと鼻高々なのである。ゆとり教育の目的は、勉学の目的は必ずしも一流大学に入ることだけではない、という認識を広めることだったのではなかったか。国立大学入学者数で成果を測るというのは本末転倒のような気がする。どうやら、問題は、子供の教育の目標がいまだに「有名大学」というところにあるのではないか、と思った次第である。