場当たり的「年金番号」で無駄の山ができるのか?

場当たり的「年金番号」で無駄の山ができるのか?

 一部の報道によると、「消えた年金記録」への対応策として「年金カード」を作成するなどという、時代を10年も逆行するような議論が蒸し返されているので驚かされる。というか、もしかすると、すべてを知った上での某社会保険担当機関の生き残りへの巧緻な戦略かもしれない。だとすると、冷静に議論を進めなければならない。


 電子社会、電子政府、電子行政の基礎的な前提条件は、安全性を十分に確保した上での、国民データの一元化だと思う。一人ひとりに統一番号を所有させて、住民票から、健康保険証、運転免許証、パスポートその他もろもろの番号をリンクさせることが必要だとして、住民基本台帳ネットワークの住基番号を策定した。これを元に「統一番号カード」を作ろうという議論も進行中だ。


 何も年金だけにゼロから新しい番号やカードを作る必要はない。住基番号にリンクさせておけば今回のトラブルのような事態でのデータの照合は容易であるし、第一、こんなトラブルが発生しようもない。事態の進行を遅らせているのは「個人のプライバシー」という抽象的な不安である。この不安をなくすためにシステムの中にさまざまな利用制限のバリアを構築するのは難しくないのだが、なぜか、各省庁は、それぞれの番号を切り離してわざわざ不便にしようとしているのだから、不思議でならない。


 厚生労働省は、今回の事態に対応する緊急措置のように持ち出して、独自の番号やカードを別途に作ろうと主張しているようだが、そのアイデアは以前から議論されていたものの蒸し返しである。疑い深く勘ぐってみれば、自ら撒いた責任を取る殊勝な顔をして、実は権益を一つ、もぎ取ろうとしているようにも思われるのだが、あまりに疑りすぎだろうか。下賎な表現では、こういうのを「火事場泥棒」と呼ぶのかもしれない。あまりに疑心暗鬼になりすぎだろうか。

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