晩年、存命中には周囲から敬遠されてきたが、亡くなられたとたんにこれまで敬遠してきた方々からも非常に惜しまれる、という、奇妙な生涯を閉じられた――NEC元社長、元会長、関本忠弘氏の人生はなかなか筆舌には尽くしがたい波乱に満ちた80年の人生を11月初旬に終えられた。筆者は、31年の長きにわたって氏と親交を得た。
日本経済新聞記者時代の取材を縁に知り合ったのだが、情報源としての氏の存在は筆者にとっては極めて貴重なものであった。筆者は日本経済新聞記者時代に、激しい業界の転変を背景にしたさまざまなスクープを世に出し、質の高い専門記者としての栄誉を得ることができたが、そのうちの幾分かは関本氏のヒントによるものがあった。もちろん、そのヒントは当時、氏を取材していた多くのジャーナリストに共通に提供されたものだろうが、その裏づけ取材をし、特ダネ記事にできたのは、筆者の力量に負うところが多いと自負しているが、それにしても最初のヒントがなければ前には進めなかった。
晩年も、真偽を確かめがたいさまざまなエピソードを聞かされた。多くは私怨に満ちたもので、こういうケースでは記事に取り上げるには多くの手続きが必要になる。その「裏取り」の作業もままならないうちに、情報提供主が他界するという状況に見舞われ、いささか戸惑っているというのが偽らざる心境である。
関本氏は裏側のエピソードやそれを裏付けると称するデータを多数、提供してくれたが、ジャーナリストの厳格さから言うと、どのデータも、全面的に信じるには足りない部分が多数あった。本人には「真実」でも、思い込みや検証されていない間接情報が多数、混じりこんでいて、だれかが不十分な材料で誤った結論を導いて関本氏に吹き込んだ、という可能性も排除できない状況だった。
なお、一部のメディアはその材料を独自に検証し、確認できた一部を基礎にして特集記事を書いた。その努力や多としたい。それはいまだに迷走しているかに思えるNECの経営そのものの問題点を突く内容でもあったからだ。首都圏ソフトウェア協同組合の加盟企業の中にはNECと付き合いの深い企業も少なくない。NECが昔のような勢いを取り戻してくれることを願う経営者も少なくないのではないか。
晩年の氏の問題は、私怨と公憤との境目が他人からは見えなくなったことだろう。
メッサメルマガでそのディーテールを公表することはできないが、懇親会やメッサ協議会の場などで、個人的にざっくばらんに真偽不明のエピソードを「取扱注意」の条件で話す機会があるだろう。生きているうちは恐ろしくて敬遠されたのに、亡くなられたとたんに称賛の声が上がる。こういう生き方も珍しい。棺おけの蓋をかぶせたときにその人の評価が定まるそうだが、関本氏は、晩年の氏の境遇に比べ、はるかに高い評価を与えられて良いのではないだろうか。