秋葉原の無差別殺人事件は、その結果に驚愕するとともに、その原因、動機について、筆者にはどうにもしっくりと腑に落ちず、なんとも不快な思いがある。
中学まで優等生だった犯人が高校時代に挫折して、その後、経緯を経て派遣社員として格差社会の壁に直面し、社会や派遣先企業への不満を募らせた、というのがマスコミに伝えられるストーリーである。これだけが原因であるなら、この社会には同様の条件を抱えた若者はたくさんいる。少なからず、ソフト産業にも同様の条件に当たる若者がいるかもしれない。では、ここまで暴発する者とそうでない者の違いは何なのか。暴発しない者もいつか、暴発するかもしれない潜在的な可能性を秘めているのだろうか。
同様にしっくり来ないのがインターネットで得た知識を使って、さらに自殺志願(?)の人たちがこぞってアクセスするサイトで連絡を取り合って、見知らぬ若者が落ち合って死ぬ。複数の人間が死ぬのだから「心中」というべきかもしれないが、見知らぬ人間が一緒に死ぬのを「心中」というのは変なので、「集団自殺」というべきだろうか。
今回の秋葉原の若者も「自己破滅」の願望、自殺と類似の願望があったのだろうか。ただ、「自殺」を敢行するだけでは収まらない社会への不満、社会へのストレスが充満していて、単に自殺するだけでは解決できないものがあったのだろうか。どうも形を変えた「自殺行為」、あるいは当人は討ち死にせずに生き残ったのだから、「自殺未遂」だったような気がする。もちろん、この「自殺」は借金苦に追いつめられて選ぶ「死」とは本質的に異なるものだろう。
根源的に自殺願望は人間共有のものかもしれない。ノーベル文学賞作家のアルベール・カミユは「シジフォスの神話」で「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する。これが哲学上の根本問題に答えることなのである」(清水徹氏訳:新潮文庫)と述べている。日本では、「腹切り」が道徳行為として美徳とされた時代もあったし、その道徳観の余韻は現代にまで生き続けている。
一見、最近の自殺や自殺願望に基づくような暴発的な行動は、こうした深遠な哲学や日本古来の伝統とは無縁に思えるようだが、実は、ここに根ざしているのではないだろうか。こういう根源的な問題が、その根底に潜んでいるとすれば、「人生は生きるに値するか否か」の問いへの解答が必要な気がする。「腹切り」も単なる自殺ではなく、「永遠に生きるための行為」で、「死ぬに値する」とはその時代には「生きるに値する」のと同じことだったのだろう。
われわれが暴発しようとする若者に対して暴発を止めて、ともに歩くことを語りかけるとすれば、「人生は生きるに値する」ものであることを示さなければならないだろう。しかし、これは至難の業である。俗世間ではなかなか解答が示せない。実は、この解答へのアプローチは、学生時代「倫理学」を学んだ筆者の課題でもある。秋葉原の事件を目の辺りにした居心地の悪さは、その課題に解答案を作れない、宿題を提出できない、筆者の不快感でもある。