日本文化の伝統を引き継いできたはずの大相撲がメタメタである。
目上の者、師匠、対戦相手など、他人への礼儀と秩序を重んじ、古くからの伝統を守ってきた。無反省に、それが絶対的な価値だとは言わないが、最も模範となるべき横綱が、病気療養と偽って協会の公式行事である巡業をサボって母国に帰り、病気も何のそのサッカーに興じていたことが発覚した。ここで引退させるべきである。本来は、大相撲の最高位は大関である。その中から品格の優れた者を横綱にした。
強いだけの最高位は大関なのだから、品格のない者は横綱に置くべきではない。これが日本の国技、大相撲の暗黙のルールだったのではないか。横綱は降格できない至高の位(くらい)である、というのも大相撲のルールである。負け越しても、降格させない。しかし、横綱が負け越すことは許されないので、負け越しが確実視されると、周囲から引退が勧告される。そして、負け越しが予想された横綱は、この勧告に従うか、病気を見つけ出して休場して翌場所を期し、この場所での勝負による負け越しを回避してきた。それすら難しい時は潔く引退した。
巡業をサボった横綱は品格を欠き、横綱たる資格を失ったのだから、降格がないとすれば引退するしか道がなかったのである。
現在の協会はこれをうやむやにするような体質であることがわかった。また、こういう体質であるからこそ、長い間、タガが緩み、ぼろぼろと不祥事の連続となったのである。
不祥事の中で、一部の外国人力士の問題がある。高見山をはじめとして、日本人の心、日本文化を自分のものとした多くの外国人力士の実績がある。その故、協会は多くの外国人力士を迎え入れ、相撲界は国際化を進めることになった。ただ、問題は、そうした外国人力士に対して、相撲の伝統、日本文化としての位置づけをきちんと教育できているのか、ということだ。もちろん、外国人力士だけでなく、日本人力士、どころか、親方衆にも、この日本文化への理解が不十分な形跡が見えるのは由々しきことである。一部の外国人力士とともに日本人力士や親方衆の再教育も必要である。
強いだけの外国人力士はごめんである。
われわれの業界でも心しておかなければならないことがある。
外国人技術者の活用の際である。日本のビジネス社会のルール、あるいは守秘義務のルールの中身、日本企業の仕事の仕組みやビジネス慣行など、日本人ならば当然と思っていることがとんでもない誤りである可能性もある。技術の優秀さだけでなく、正しい意味での日本社会との融和、日本社会の精神がもつ美徳を理解しているかどうか、それも考慮しなければならない。翻って、日本技術者の側でも、そうした点で理解が足らないならば、日本社会ではいずれ通用しない人材となってしまうだろう。技術だけではない、さまざまなしつけ。相撲界の没落を他山の石として、日本の情報産業再構築のヒントとしたい。