以前、青山学院大学で「情報倫理学」の授業を持っている、という活動報告
をしたので、その続きを――。
学生諸君に「小学生に携帯電話を持たせない法律ができるのは望ましいか」と聞いたら、「倫理の立場からは、当然、携帯電話を禁止する法律を作るべきだ」という回答が多かった。世論調査をすると70%から80%もの人が同様の回答をするというからがっかりである。また、倫理学は何でも禁止する窮屈な学問である、と誤解しているのにもがっかりだ。では、この件を「倫理学」はどう答えるか。
――そんな馬鹿げた法律は「倫理学」の目からみてルール違反だ。
倫理学の原則の中に「愚行権」と「他者危害排除の原理」という考え方がある。
「愚行権」は、人間には他人からは愚かに見える行為でも、自由に行う権利がある。例に出されるのが「登山」や「喫煙」である。遭難する危険を冒してでも険しい山に登る。他人からは愚かに思えることでも、これを法律で禁止しない。本人にとって、危険にも勝る、幸せな結果が得られるなら、他人はこれを一律に禁止することは自由権の侵害である。肺がんになる危険が大きくてもたばこを吸う快適さを捨てられない、という愚かな行為も、他人が禁止することはできない。ただし、条件がある。「他者に危害を与えない限り」の自由である。他者に危害を与える危険があるときに、初めて、公的な規制が可能になる。そうでなければ、遭難するのも、肺がんになるのも、愚行権の範囲となる。
間接喫煙によって喫煙しない他人まで肺がんのリスクが高まる、という声が強まって、初めて、「他者危害排除の原理」から、喫煙に公的規制がかかった。間接喫煙を防ぐ対策が施されていないところでの喫煙禁止である。たばこの匂いが嫌いだ、という理由だけでは、肺がんの危険を冒してでもたばこを楽しむ人の権利を停止させることはできない。携帯電話を使う子供は勉強ができない、ということが仮に事実だったとしても、親が、学習能力の向上よりも人脈の幅を広げることを子供に望むならば、愚行権の立場からその権利は認められる。
法律や公的権力で国民の自由を禁止できるのは、他人に生命、身体の危害を与える場合だけである。携帯電話を子どもが所持することが他人の生命、健康に危害を与えるという証拠がない以上、これを公的権力で禁止することはできない。それよりも、携帯電話によって子どもの所在が確認でき、安全を確認できる、というメリットの方が上である。さらに携帯電話でさまざまな学習知識を習得できるサービスが充実してくれば、こうしたサービスを受けられるメリットを法律で禁止するには、そのメリットを超える他者危害がある、ということが立証されなければならない。
教室の中で携帯電話をかける児童を使わせてよいのか? 使わせてはいけないのは当たり前である。これは教師の指導の問題である。教室の外から圧力をかける問題ではない。教室に入るときには、ロッカーに収納するなど、他の手段はいくらでもある。子どもが有害な情報に触れるのを防ぐには、フィルタリングソフトの機能を強化する、ネットワークの中のパトロールを強化して、有害情報を排除するなどの仕組みを作るべきである。
情報社会は未完成、あちらこちらに問題が発生する。それをただちに法律で禁止するというのは、全くの愚挙である。こうしたことに権力を行使しようという発想が出てくるとすると、これは権力者が権力を乱用して、巨大な力を持とうとしている、もっと大きな危険の兆候である。情報社会はまだ、巨大な幸福を人間にもたらす可能性を秘めた、希望のある社会である。この可能性を閉じ込める愚挙には、断固として反対しなければならない。これは法律の問題ではなく、倫理の問題であり、生き方の選択の問題である。