まだ、福島原発事故の事後処理は終息のメドも全く見えない。放射能に汚染された農作物には消費者はまだ全面的な安心感をもつのにほど遠い。実際、基準値を超える農産物が時折、発見される。発電所に格納されている使用済み核燃料も、今後、どのように処理するのか皆目、見当がつかない状態なのではないか。国民の多くは、2度と、同じ思いを経験したくない、と、原発の運転再開には慎重である。もはや原発の運転再開には反対である、という強い反対も少なくない。その中には福島原発事故が起こる前からの反対派もいるので、今回の事故を契機に反対に転じた人がどれくらいいるかは分からないが、それでもかなりの比率に昇るのではないか。
しかし、福井県大飯原発の運転再開をめぐる政府の動きをみていると、「安全性の確認」は極めて杜撰であるとして、かえって、「安全性」に不安を強めた国民が多いのではないか。皆、この夏の電力不足に対して心配しているが、しかし、原発のリスクと天秤にかければ、かなりの辛抱をしてでも本当に「安全性」が確認されるのを待つ、という気になったのではないか。福島原発事故の前にも「絶対安全」とされていたものが事故を起こし、故郷を追われる人、農業を持続できない人、事業が立ち行かなくなった観光業者、流通業者など膨大な数に及ぶ。この人々には、どのような補償がなされるのか。これまでのところ、とても必要な補償が行われるとは想像しにくい。
同じことが原発立地地域だけでなく、かなり距離がある周辺地域も巻き込んで再び繰り返されることはないのか。原発事故だけは他の事故と違い、試行錯誤がきかない。起きたら甚大な災害を引き起こす。そういうリスクをだれがかぶらなければならないのか。
今回、よく分かったロジックは「原発の運転が再開されないと電力不足が懸念されるので再開は必要である」ので「この程度の安全性確認で十分だ」というところにある。「住民にとって安全が確認されたので再開する」のではなく、「電力事情から必要なので、理解いただきたい」ということに尽きる。「安全かどうかは政治判断」なのである。そうか、福島事故以前の「原発は絶対に安全だ」というのも「政治判断」によって主張されてきたことなのか、と納得させられる。
原発の運転再開論議に時間と資金と勢力を割くのではなく、短期間ではあるが、全力を尽くして、原発以外のエネルギー源の確保を急ぐべきである。政府がむきになって原発再開に執着するのは、いかにも不自然に思えてきた。