あえて国民総背番号制を考える

あえて国民総背番号制を考える

内田洋行 『inkSpot』 奇論・暴論 2003年7月28日

 住民基本台帳ネットワークが立ち往生してから、ほぼ1年が経過した。この間に、住民基本台帳ネットワークがもつ意義について十分な議論がされたかというと、筆者には、とてもそうは思えない。むしろ、感情的で不毛な非生産的な議論に脱線していったように思われる。この議論をすると、ネットワーク上では、心無い「罵倒」と一方的な「誹謗・中傷」にさらされることが多いので、筆者の知人には「君子危うきに近寄らず」とばかりにこの問題を避けて通る人が多い。正直に言うと、筆者も、正常な議論が行いにくいこのテーマにはなるべく近寄らないで来た。

 しかし、この一点だけはきちんと認識しておかなければならないポイントがあるので、勇気を奮って考えてみることにする。

 このテーマで最も中心的なものは、国民総背番号制の是非である。一部の論者は国民総背番号制に過剰反応を起こす。ただちに「プライバシーの危機」と即物的に反応する。技術の進歩や人間の価値意識の変遷を理解しない幼稚な議論である。もうだれも取り合わないだろうが、笑止千万だったのは、国民総背番号制になると、人間が固有名詞で呼ばれずに、無機的な番号で呼ばれるようになる、という議論まであった。識別のための番号と固有名詞や通称とは全く別のもので、郵便番号が7桁になったからといって、町名がなくならなかったのと事情は同じである。こういう議論に付き合って時間の無駄をしたくないので、まともな人はこの議論から遠ざかってしまった。

 さて、もう少しまともな議論で、情報がセンターに集中することの危険を強調する論者もいる。これは国家が情報を集中的に管理することで、個人の自由や存在が脅かされる危険を指摘したものである。歴史的には、この危険が存在する時期は確かにあったかもしれない。現に、今日、ただいまでも、密に国民の個人情報が国家のどこかのセンターに集中して管理されているかもしれない。しかし、これと国民総背番号制とは、話が別である。国民総背番号制がなくても、必要ならば、密に、個人情報は生年月日や住所をキーにしてどこかに集中して管理することができる。もちろん、不正にだが。

 民間でも同様である。すでに買い物情報や各種の会員情報は、個人の経済活動、社会活動として記録、蓄積されている。こうした情報は国家の管理とは別のところにある。皮肉なことに、個人情報の危機を声高に主張する人々は、こうした民間の個人情報管理が適正に行われるように国家がきちんとコントロールしろ、と、普段の主張とは逆に国家管理の強化を促すジレンマに陥る。

 しかし、これらの議論に共通しているのは、すでに、こうした情報の集中管理をだれが支配権をもって執り行うか、その問題設定自体が古くなってしまっているのに気がつかないことである。情報ネットワークの技術は、情報の集中的なコントロールではなく、超分散的な「ピア・ツー・ピア」を可能にする新しい環境を提供している。

 また、さまざまなデータベースに断片的に自分の知らない個人情報が蓄積される。コンビニエンスストアや銀行のATMコーナーではカメラが作動していて利用者の映像を常時録画している。繁華街では街頭を撮影していて、犯罪の摘発やけん制の効果を発揮している。すでに古典的な意味で、「個人情報を守る」などという考え方が風化しているのであって、事態は、全く新しい社会環境、インフラの上に、もはや通じなくなった価値観を捨てて、どのように新しい個人情報の管理を行うか、新しい価値観を確立するか、そういう本質的な議論を始めるときにきている。

 国民総背番号制を、もう一度、議論する必要がある。

内田洋行 『inkSpot』 奇論・暴論 2003年7月28日

これまでの掲載

中島情報文化研究所 > 執筆記録 > 内田洋行 奇論・暴論 > あえて国民総背番号制を考える