九州のスポーツ施設で、また、銃による悲惨な事件が起きた。真相はまだ十分には解明されていないが、伝えられている情報によれば、どうやら事件は、魅力的な女性インストラクターに片想いした男が、その女性を一方的に道連れにした無理心中という状況のようだ。とんでもない男に片想いされた女性のご冥福と巻き添えにされた友人の方のご冥福とをお祈りしたい。
事件の前から、この犯人の挙動には近隣の人たちから警察にあれこれの危険情報が寄せられていたようだ。危険な挙動があるので、こういう人物に銃を所有させるのは危険だという通報である。報道によれば、銃の重要部品を警察に預けるようにこの犯人に電話で通知し、納得してもらったという。にもかかわらず、犯人はその部品を警察には預託せず、この犯罪を起こした。
澎湃(ほうはい)※と巻き起こった「良識」は、「なぜ、このように銃が放置されているのか。もっと厳しく管理せよ」、ということである。「銃の個人所有を認めずに、専門の銃取り扱い業者に保管して、自由には使えないようにせよ」、という議論も起きている。「何も、民間の銃の取り扱い業者に任せるよりも警察が直接に扱ったほうが良い」という意見もある。現代の「刀狩」ならぬ「銃狩り」である。銃に趣味のない筆者のような人間は、できるだけそうして欲しいと思う。
もう一つ、まだ正面から議論にしていない論点がある。「銃を使う、ということをそこまで管理することは、あまりに厳しい管理社会を招く危険はないのか」という論点が水面下に隠れている。原理主義的に過度な個人情報の保護、プライバシー権を主張してきた自由主義論者はいずれ、こうした管理社会の危険を言い立てるのではないか。
「銃狩り」を徹底しようという側の議論は、少し拡大して考えると「再犯の危険のある犯罪予備軍の人物を放任していて良いのか」という議論に通じるものがある。欧米の厳しい国では、性犯罪などの繰り返し犯罪を起こす可能性のある人物の情報は地域に告知し、ホームページで告知しているところもある。社会の安全のために仕組みを作るとすれば、銃の所有に厳格な制限を設けることも、また、繰り返し起こす確率の高い犯罪歴を持つ人物を監視下に置くことも同水準のことのように思えるのである。
実は、こうした管理社会を到来させるための技術は、ICTによってすでに確立されている。制度的にこれを社会が認めるかどうか、が残された問題である。凶悪な銃犯罪が起こると社会は管理社会の側へ動く。これに反対する原理主義者のけたたましい反対運動が起きると管理社会は遠のく。管理社会のほうが生命や財産の安全から考えると望ましいように思われる。筆者はどちらかといえば、その推進者の側に立つ。反対する方々の意見も分からないではないので普段は余り議論しないが、こういう事件が起きた際には、聞いてみたい。こういう危険を覚悟してでも「管理社会」は頭から否定すべき社会なのだろうか。
※ 澎湃(ほうはい)・・・[1] 水が激しく逆巻くさま。 ・ ―たる怒濤が崩れ落ちて〔出典: 風(潤一郎)〕 [2] 物事が勢いよく起こるさま。 ・ 新風が―として起こる (大辞林より)