篤姫人気を考える――時代の転換の実感
2008年09月29日
NHK、日曜夜の連続大河ドラマ「篤姫」が平均視聴率20%を遥かに上回る大ヒットのようである。筆者も、夢中にテレビ画面にしがみついている一人だ。何故、こんなに引き付けられているのか。
もちろん、原作が良い、シナリオが優れている、演じている俳優の魅力など、沢山の要因があるが、もっと大きなことは、時代の転換期に立ちふさがる大きな壁に直面して、それぞれの立場にいる若者が悩み、模索し、のたうち回っている、その姿が活写されているからではないか。昨年の同じ時間帯の大河ドラマでは、山内一豊の妻で人気を集めたが、そのトーンは一豊の立身出世を支える夫婦愛の話だった。天下国家ではない。その前の新撰組は、時代の大きな流れに翻弄された若者の姿を描いたが、全体に喜劇仕立てにして、真剣に時代の転換に立ち向かう若者の姿を描いたかというと、物足りなかった。
今回の「篤姫」は聡明なお転婆のお姫様を主人公にすえて物語は展開してゆくが、その節々で激烈に交わされる議論は枝葉末節の私生活がテーマではない。薩摩をどうするのか、天皇をどうするのか、徳川家をどうするのか、日本をどうするのか、外国とどう付き合うのか、時代の流れの中で露呈したこのような問題を、大きな視点で取り上げている。視聴者も、その時代の課題を敏感に感じ取って、現在、自分がいる時代状況に引き比べて共感しているのではないか。
ややうがち過ぎだが、もしそういう趣旨で現代人が篤姫に同情し、時代の課題を深刻に受け止めているとすれば、現代日本人も捨てたものではない。
薩摩と江戸、篤姫はその距離の遠さ、情報が伝わることの遅さにしばしば苛立っているが、その点だけは、交代して差し上げたいほどのお気の毒である。この文明の利器があっても、日本の迷走は乗り越えられないものだろうか。